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父は認知症①~父が残してくれたもの~

昨年2月、入院先で看取りました

父は昨年の2月、誕生日の翌日に亡くなった。

享年79歳。

現在の平均寿命は男性81.9歳だそうだから平均くらいには生きたんだと思う。

(本当は平均という考え方は、私は大嫌いだ)

死因は誤嚥性肺炎。食べ物をのどに詰めて肺炎を起こしたのだ。

病気としてはそんなに苦しまずに逝ったのだと思う。

亡くなる1か月くらい前の1月上旬に

主治医の先生から私の携帯電話にかかってきた。

「今晩がヤマかも知れない」と。

年末頃から体調を崩し、詰所の隣に部屋を移動していたのだ。

入院した病院はいわゆる精神科病棟なので、急性期治療ができる大病院とは違う。

延命治療はそこそこしかできない。

病室が移動になった時に、母と私と妻で、主治医の先生から

延命措置について話があった。

母は最低限の延命措置しか望まなかった。

「酸素マスクと点滴と心臓マッサージだけで結構です」と母は言った。

随分前から家族で延命措置の話はしていたが、実際に決めるとなると辛い。

しかし、退院の見込みもなく、回復の見込みもないのに、チューブだらけに

してしまうのを見るのも辛い。

 母の判断は正しかったと、今も思っている。

その頃私は、グループホームの管理者の仕事をしており

現場に入る時間も少なかった。

だから仕事を途中で切り上げることは容易だった。

仕事柄、たくさんの高齢者を看取ってきたから

自分の親は必ず看取りたいと思っていた。

しかし、現場の職員が夜勤の最中に、そんなことができるのだろうか?

特に小さな施設では、代わりの職員を探すのも大変だ。

実際、別の施設にいた時に、仕事を優先してしまい

自分の親を看取れなかった職員や看護師長さんをみた。

この仕事も因果な商売である。

自分の親を看取ることもできないときがあるなんて。

最後の最後まで親不孝をすることがあるなんて。

 

1月上旬に電話がかかってきた時は夕方だった。

私は仕事を早々に切り上げ、すぐに母に電話をし

私の妻と子どもも連れて病院へと向かった。

父は苦しそうに肩で息をし、私たちの声かけにも

ほとんど反応を示さなかった。

その晩は朝までみんなで病室で寝泊まりした。

翌日、父は持ち直し、少し元気になっていた。

母の呼びかけにも目を開けて「はい」とか声を出してくれた。

母は今日もそばにいるという。

私たちはいったん自宅へ戻り、私は仕事に向かうことにした。

それからは仕事が休みになると、私は妻と子どもをつれて

母のいる実家に寄って病院へ見舞いに通った。

 父は子どもの顔をみると嬉しそうに笑った。

母は「誰かわかるか?なまえわかるか?」とか問うていた。

父は「うん、うん」とだけ答えていた。

なまえが分かっていたのか分からなかったのかはどうでも良いと思った。

父の笑顔が見れただけで良かったと思った。

そんな日が続いて、みんなで「しばらくは大丈夫そうやね」と言っていた矢先

またも主治医の先生から電話がかかってきた。

「こんどこそダメだと思う。親族全員呼んでください」、と。

時間は午後2時頃だった。

私は、上司の友人の新園舎立ち上げのための書類作りで忙しかったが

上司に言うと「会社の車を使っていいからすぐに病院に行きなさい」と

言ってくれた。

病院に急行しつつ、妻に電話し、学校に行っている子どももすぐに

病院に来るように伝えた。

あと、近隣に住んでいる三男、北海道に住む次男にも電話する。

北海道の次男は、なんとか夕方の飛行機の席がとれ、今日中に

到着するだろうとのこと。

次男以外は、病院に午後3時頃には集合できた。

みんなで父を囲むが、父はもうすでに目がほとんど開かなかった。

母はずっとそばで父の手を握りしめ、「大丈夫か!?大丈夫か!?

みんな来てくれてるんやで!」と呼び続けていた。

私たちもつられて、もう片方の手を握りしめ呼びかけていた。

子どもたちはさすがに、その状況を理解することは難しい様子だった。

小学6年生と小学3年生で、初めて目の前で人の死に遭遇するのだから

仕方のないことだろう。

「いっしょに手を握って呼びかけてみて」と私は子どもたちに言い

いっしょに手を握りながら「頑張れ!」と呼びかけていた。

父も今さらどう頑張ればよいのか分からないだろうな

と、自分は心の中で苦笑した。

しかし、父は最期まで真面目な人間で、私たちの呼びかけに

しっかりと呼吸することで応えていた。

午後6時35分頃、とうとう自力で息をすることも難しくなり

少しずつ息をする間隔が開くようになってきた。

「お父さん!頑張って!」という母の声に応えるかのように

真面目に必死で呼吸を続けている父。

しかし・・・

ベッドサイドに置いていたモニターがやかましく鳴り響く。

施設で何度も聞いた心臓が停止したことを伝える音。

先生が一生懸命に心臓マッサージをしてくれる。

2月だというのに汗をかいて必死にやってくださっている。

5分くらいだろうか。

母は「もう結構ですよ」と静かに先生に言った。

先生は父の脈を確認し、瞳孔にペンライトをあて、反応がない

のを確認すると「ご愁傷様です。お亡くなりになりました」と

言われた。

母は父の手を握ったまま静かに涙を流して

「最期までよう頑張ったなぁ。今までありがとうなぁ」と

何度も何度も手をさすって言っていた。

それをみて、私はなんだか泣けてきた。

そして、父の穏やかな顔を見て、私は少し安心した。

 父が認知症になったきっかけ

 死ぬ間際、父はそんなに苦しまずにいたのだろうと思う。

でも、認知症をわずらってからの約5年は、とても苦しかったろうと思う。

父が自営業をしていたこともあったので、私は父の背中をいつも見ていた気がする。

 私が小さいころは、本当に仕事がなかったのだろう。

いつも私の昆虫採集につきあってくれていた。

毎年夏になると、近所の山を登ったりキャンプをしたりしていた思い出がある。

しかし、小学4年生頃からだろうか。

随分と仕事が忙しくなったようで、家族でどこかへ行ったという記憶はない。

いつも朝から晩まで仕事をしていた。

大きな会社の下請けで試作品を作っていた。

世間がゴールデンウイークや盆休み、年末年始休暇の時は

必ずたくさんの仕事が舞い込んだ。

あたりまえである。

大企業さんは、自分が休みの時に下請けに仕事をしておいてもらい

休みが明けると同時に仕事に取りかかれるという寸法だ。

おかげで私も父の仕事を手伝うことが多かった。

半田ゴテ片手に、小さな部品を図面通りに取り付けた。

父の仕事をしている姿を見ると「楽しそうに仕事してるな」と思った。

今の私のように嫌々仕事をしていなかった。

いつも「朝練行ってくるわ」と言っては早朝から仕事場に行き

「夕練行ってくるわ」と言っては夜遅くまで仕事をしていた。

趣味もたくさん持っていた。

盆栽いじりに園芸、十姉妹やインコ、金魚や鯉、ウサギなんかも飼っていた。

朝と夕方は近所の大橋までジョギングし、エキスパンダで身体を鍛えていた。

料理も得意で、母に代わって魚料理や野菜料理を作っていた。

私が就職して数年までは、そんな生活を続けていた。

しかし、パソコンの台頭により父の仕事は一気に少なくなった。

試作品を作らなくてもパソコンでシミュレーションできるようになったからだ。

それからも細々と仕事はしていたようだが、いつの間にか仕事は

全くなくなってしまった。

 

ある日、自転車で父と母が墓参りに行った時である。

父がふとしたことで転倒してしまった。

父はあまり出かけなくなってしまった。

今思えば、それがきっかけだったのだろうと思う。

少しずつ認知症状が出始めた。

朝に雨戸を開けたのに、すぐに雨戸を閉める。

墓参りに行くと道が分からなくなり、たどり着けなくなった。

父の実家に行こうと電車に乗るが、降りる駅が分からない。

母がたまらず「この駅やで」と言っても聞かず

「この駅やない」と言って遠くの駅まで電車に乗る始末。

初夏に熱中症になって、認知症状はより進行した。

雨戸の開け閉めは相変わらずだ。

外からの目が気になるのか窓にダンボールを貼り付けたりする。

急に母に怒鳴ることがあった。

母もわけが分からず、怒鳴り返すことも頻繁になった。

 

大事な書類とそうでない書類とかの区別がつかなくなり

無茶苦茶な収納をやり始めた。

幸いだったのは徘徊がなかったことだった。

仕事場に一日中、何をするでもなくひきこもっていた。

トイレの場所が分からなくなってきた。

トイレに失敗することが多くなり、紙パンツをはくように

なった。

そうなってくると母もしんどくなり「どないしよ」と私のところに頻繁に

電話がかかるようになってきた。

私はいつも同じことを言うようにしていた。

「認知症のお父さんを怒鳴ってもアカンで。お父さん、昔から

ダジャレを言うたり、つまらんギャグして笑わそうとしてたやろ。

それやと思たらええ。『また私を笑わそうとしてワザと変なことするんやな』と

言い返すようにしぃ。そない思たらラクになるわ」、と。

母は素直にそれを実践してくれた。

すると不思議なことに穏やかになってきた、と母から電話がかかってきた。

私からすれば当たり前のことやと思った。

本人は大真面目で行動しているわけで、怒られたら当然、怒り返すわ。

でも、本人もうすうす「なんかワシいつもと違うな」思ってる。

それを、『また笑わそうとして面白いことしてくれてる』と言うと

『あ、そうや、ワシ笑わせようとして、ヘンなことしたんやな』と

自分の中で落としどころが作れる。

だから怒らずに、お笑いにもっていけば、どっちも気持ちがラクになれる。

尿失禁のほうはどうしようもないけれど、父が穏やかになることで

母は自宅で暫く面倒をみることができるようになった。

 

父は仕事一辺倒ではあったけれど、楽しく仕事していたし

趣味も結構いろいろ持っていた。

運動も適度に行い、料理も得意で、ひと一倍健康を気にしていたと思う。

結構、認知症予防として色々頑張ってたと思う。

でも結局、認知症にかかってしまった。

 

みなさん、なにをやってても認知症になるときはなるんです!

気にせず今を楽しく生きていきましょう!

父が教えてくれたこと

 父の背中を見て、私は今まで真面目に一途に生きないと、と思っていました。

しかし今回、父を看取り、父が最期に教えてくれたことは

今までの自分の人生を振り返ってもう一度、人生について考えるということ。

どう生きても人生は人生。一回きり!

楽しく生きたもん勝ち!

病気になるときはなるんだから気にしない!

どうせなら悔いのない人生を送りたい!

いつでもやりたいと思ったら行動する!

 そう強く思ったのです。

まもなく50歳。

ちょうど人生の岐路を考える頃。

今までやってみたいこと我慢してきたけど、もういいんじゃないか?

仕事もプライベートも、好きなことやって生きてみよう!

 

こんな機会でもなかったら、私はこれからもダラダラと嫌な仕事をして

我慢して生きていたと思う。

みなさんもこのブログを見ていただいた機会に

自分の人生を振り返ってみてはいかがでしょうか?

 

最後までおつきあいいただき、ありがとうございます。

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